文学部っていう「学部」にお金をかけとく意義について(仮・もうちょいまとめたい

いうて野放図に増えるのはどうかとは思うんだけどさ。

 

でもま、最近話題の文学部廃止論についてちょっとだけ。

これ、役に立たないものにものすごいお金がかかってるのはおかしい、っていう論調なんだよね。

お金を産まないからお金をかけるべきでない、と。

ふむ、わかりやすい。

けどこれは見えるお金と見えないお金の話、とも言える。

 

 

まずは文系知識と理系知識の差異について。

 

いわゆる文系知識は、消化して体の一部になってしまうので、使ってても「無い」認定される。

「はいっ!」と元気よく手を挙げると、それだけで5kgぐらい?のものを持ち上げてるんだけど。
自分の中では完全に「何も持ち上げてない」ことになる。

 

逆にいわゆる理系知識は、体に組み込めないものが多い。
生き方、ではなく、もの。

結果知識を使ってるのがわかる。
ダンベルを持ち上げている」時のように。

 

つまり多くの理系知識は直接お金を産むけど、文系知識は本人自身のレベルアップを意図している。

どっちが社会を変革するかといえば、圧倒的に!

 

どっちかにはならない。

 

理系知識で産まれたモノやコトは生活の形態を変えることもよくある。

とはいえそれはあくまでも誰かが使ってなんぼ。

遺伝の法則のメンデルさんのように、時代が追いついていなければしばらく封印されることも。

 

文系知識が産むものは個々の血肉たりうる。

そしてそれはそこを卒業したものたちの思考を底上げし、社会全体を底上げする。

また最近アメリカで収入関係なしに高学歴ほど病気のリスクが低いことがわかったそうな。

https://newspicks.com/news/2388887/

アメリカのことだし副次的な相関かもしれないけど、おそらくだいぶ関係はある。

アメリカとかでは大学生、哲学は必須。

全大学卒業生が必ず文系知識を持っていると言える。(深いか浅いかは個人によるが)

従ってたとえ低収入でも、少しはバランスのとれた食材を選んだりジョギングに行ったりできる。

意識で自らを律することのできる「確率が高い」

コレはいわゆる「予防医療」そのものであると言える。

けど結局どの栄養成分が効くのか、っていう理系知識がないと予防それ自体が不可能。

さらには結局なるときはなるんだから、治療法は絶対必要。

 

つまり文系知識は「損害を減らす」方にプラスに働く要素が大変強い。
それは人類的にはだいぶプラスではあろうが、減るものが減ってるかどうかってのはわかりにくい。

 

 

次に本題。

文系ではく「文学部」である意味について。

 

センター国語がクソだ、っていう人は多い。

「読み取り方」なんて読み手次第で千差万別。

それに「解答」を選択肢として用意すること自体がおこがましい!

しかも作者の意図とずれてることすらあるなんて、全くもってくだらない!と。

 

それ、センター国語の意図を完全に読み違ってるし、文学を読む気も足りないんだろうなぁと思う。

まず選択肢の存在については、本文中に書いてあるかどうか、そこを中心に判断される。

本文中になく判断できないことはとにかく保留。

自分の感情を乗せて読む、なんてことは、ここでは一点たりとも求めていない。

いわゆる説明書や事務手続きの書類、そこで自己判断された日にゃ。

書いてあることを書いてある通りに読んで、書いてある通りに実行すればいいのに。

そんな文章の超基礎トレーニング。それがセンター国語。

 

もし作者の意図と正解選択肢がずれていたとしても、

それは作者の表現力が足りなかった、

もしくは読者の想像に任せた余白部分のため、本来問題にはできなかったものと言える。

 

つまり文学を読む、とは、「他人の気持ちを読むこと」が1つの目的と言える。

そこからの「他人になること」、そして「自分の『経験』を増やすこと」という感じ。

 

センター国語なんかはホント入口中の入口、文字面を追うこと。

それはそれとしてできないと話にならない。

その次に作者の性格や生い立ちなんかを知ることによってより深くその人の感情を推測。

結果自分がしたことのことのない体験を「自分が」体験する。

 

一応自分が読みたいように文学を読むのは1つの楽しみ方。

しかしそれとは別に作者へと同調して読む、つまり「他人の気持ちを読む」ことは別物。

文学の探求とは、色々な国の色々な人間、下手をすれば人間以外にもなれる。

実際動物の思考など「正しく」認識できる人類はいないだろう。

しかし客観視を交えれば、文中で「作者がどう考えているのか」を意識できる。

作者が擬人化した動物に対して抱いている感情であるとか、何故その動物にしたのかであるとか。

 

そうしてどんどんと他者の感情を掘り起こし、共感力を磨いていく。

と同時に文脈把握能力を磨けるため、因果関係をつかむ能力が上がる。(そこは理系知識も一緒)

それら自体が「マイナスを減らす」力である。

 

他人の痛みがわかるから、誰かに協力するし、できるだけ迷惑をかけないし、犯罪は避けようとする。

そういった能力を磨いた人が増えることは、だいぶ大きな投資たり得る。

まぁ…個人差は大きいけど。

けどそれも底上げこそ目的と考えれば、むしろ想定内。

 

芸術作品を作る、っていう目的だけなら芸大と同じ数でも確かに問題はない。

けど文学っていうのはある種の歴史の蓄積。

何人もの人間になれるのだから。

もし歴史学に価値があるならば、同様の価値が文学にもあると言える。

 

文学部っていうといろんな内容があるところが多いのも、

全部「他人の気持ちを読む」という観点から見ると一貫してる。

心理学なんて最たるものだけども。

アレは文系じゃない!っていう人多いけど、文系だから理科しちゃいけない理由なんかない。

むしろもっと複合的・学際的に「他人の気持ちを読む」ための探求をすべきー。

 

っと、とっ散らかった。

 

そろそろ結論。

文学部は「他人の気持ちを読む」勉強をする学部。

社会の維持や社会のマイナスを減らすために作用する学問であると言える。

そこに投資すること自体は、大きなリターンがあるが、いかんせん見えない。

なので安易に「やめる!全部廃止だ!」とかは意味がわからんよという感じ。

 

あとよくコスパ論を唱えてネットだけでできるよ!って人が多いけど、

そういう人は実際にそれのみで、しかも1人でやっちゃってください。

適性があって、実際できる人もわりといるので。

 

その上でそういうことができるタイプの人は実際大学行かずに高卒で働いていただきたい。

充分その能力があるだろうし。

んで働きながらでも学べるからファイト。

 

いわゆるF欄とかでも、いって学ぶだけで大きなプラスになっている…けど見えない。

そういうお話でした。

もう遅いし今日は寝る!(…4時ってむしろ早いなのかなぁ?)