坊主と袈裟は別物

嫌い、もしくは憎いという感情は難しいな。
批判がしたいときは相手を褒めてから、という姿勢は貫こうと思ってるのでまずは利点から。
しかし嫌いの利点か…わりとキツイな。

整理整頓、断捨離かな。
平和、ではなく、平穏を目指す感じ。
和合を求めるわけではなく、何も起こらないを求める、感じか。
とはいえ「特化する力」と考えればそれはそれで強くはある。
後は報復や自分の地位確保だろうか。
大きすぎるグループは動きが遅くなるので、小集団に別れることは一つの利点か。


問題は…まぁ多い。
①キライはその感情を持った時点からそのものの利点について考えなくなる。
苦手や未熟にキライっていう名前をつけちゃって、栄養素の不足やら運動不足やらにはなりがち。
②排除のための行動が周りに拡大する。
声の大きい方がやるとイジメやらハラスメントの類になりがち。
③自分の中でも拡大する。
やっと本題か。
坊主と袈裟は別物であるはずなんだけど、一部の坊主がキライなだけで全坊主をキライといってしまう。
坊主どころかその付属物、さらにその家族までキライになってしまう。

①は自分が損をするだけなんだけど、②・③に巻き込まれるとなかなか悲惨。
ただ普通に生きているだけでも親や兄弟、子どもが急に犯罪を犯すこともある。
子どもなら止められるだろう、ってよく言われるけど、わりと難しいだろうね。
追い詰められての犯行なら追い詰めるような人なわけで、何故追い詰めてたのかわかってないわけだし。
親兄弟ならなおさら。どう防げばいいのかなんてわかるわけがない。

個人的には再チャレンジ禁止社会はだいぶ不利益だと思ってるんですが、本人だけでなくその家族も会社を辞めざるを得ない状況とかはやはりおかしいかなぁと。
子どもと親は完全に別個体。
二世議員優遇を嫌う人が、犯罪者の子どもを嫌う理由ってなんなんだろうなぁと。