自動翻訳出来るんだし、英語教育なんているの?の話。

わりと面倒なお話。

 

とりあえず、楽しいと嬉しいの違いってわかります?
これ、なんも見ないで即答できる人はわりと変態寄り。

 

あと、楽しいと言う感情と楽しいと言う言葉、先に生まれたのはどっち?

 

言葉なんですよね。

 

感情は言語がないと未分化。
まだ楽しいにも嬉しいにもなってない。
ただのなんらかの「快」の方向の感情。

それこそ一匹の、「他の人類と接触したことのない」一匹の人類がいたとして、未だ全く言語を持っていないため、その子は「悲しさと楽しさ」とかを同時に得ることもありうるのかもしれない。

いや、どんな感情かわかんないけど。

 

だから自動翻訳後でも、他の言語を身につけるのは、思考そのものの拡張なので、必要。
ただそれを全員必修とかはどうなのかまではわかんない。
あと英語である必要もわかんなーい。

自動翻訳レベル次第とは思うかなぁ。

 

あ、楽しいと嬉しいの違い自体はは、なんだっけ。

楽しいは行動を伴って心がウキウキ。

嬉しいは自分の思う通りになって喜んでいる、って感じだったはず。

あってる?

文学部っていう「学部」にお金をかけとく意義について(仮・もうちょいまとめたい

いうて野放図に増えるのはどうかとは思うんだけどさ。

 

でもま、最近話題の文学部廃止論についてちょっとだけ。

これ、役に立たないものにものすごいお金がかかってるのはおかしい、っていう論調なんだよね。

お金を産まないからお金をかけるべきでない、と。

ふむ、わかりやすい。

けどこれは見えるお金と見えないお金の話、とも言える。

 

 

まずは文系知識と理系知識の差異について。

 

いわゆる文系知識は、消化して体の一部になってしまうので、使ってても「無い」認定される。

「はいっ!」と元気よく手を挙げると、それだけで5kgぐらい?のものを持ち上げてるんだけど。
自分の中では完全に「何も持ち上げてない」ことになる。

 

逆にいわゆる理系知識は、体に組み込めないものが多い。
生き方、ではなく、もの。

結果知識を使ってるのがわかる。
ダンベルを持ち上げている」時のように。

 

つまり多くの理系知識は直接お金を産むけど、文系知識は本人自身のレベルアップを意図している。

どっちが社会を変革するかといえば、圧倒的に!

 

どっちかにはならない。

 

理系知識で産まれたモノやコトは生活の形態を変えることもよくある。

とはいえそれはあくまでも誰かが使ってなんぼ。

遺伝の法則のメンデルさんのように、時代が追いついていなければしばらく封印されることも。

 

文系知識が産むものは個々の血肉たりうる。

そしてそれはそこを卒業したものたちの思考を底上げし、社会全体を底上げする。

また最近アメリカで収入関係なしに高学歴ほど病気のリスクが低いことがわかったそうな。

https://newspicks.com/news/2388887/

アメリカのことだし副次的な相関かもしれないけど、おそらくだいぶ関係はある。

アメリカとかでは大学生、哲学は必須。

全大学卒業生が必ず文系知識を持っていると言える。(深いか浅いかは個人によるが)

従ってたとえ低収入でも、少しはバランスのとれた食材を選んだりジョギングに行ったりできる。

意識で自らを律することのできる「確率が高い」

コレはいわゆる「予防医療」そのものであると言える。

けど結局どの栄養成分が効くのか、っていう理系知識がないと予防それ自体が不可能。

さらには結局なるときはなるんだから、治療法は絶対必要。

 

つまり文系知識は「損害を減らす」方にプラスに働く要素が大変強い。
それは人類的にはだいぶプラスではあろうが、減るものが減ってるかどうかってのはわかりにくい。

 

 

次に本題。

文系ではく「文学部」である意味について。

 

センター国語がクソだ、っていう人は多い。

「読み取り方」なんて読み手次第で千差万別。

それに「解答」を選択肢として用意すること自体がおこがましい!

しかも作者の意図とずれてることすらあるなんて、全くもってくだらない!と。

 

それ、センター国語の意図を完全に読み違ってるし、文学を読む気も足りないんだろうなぁと思う。

まず選択肢の存在については、本文中に書いてあるかどうか、そこを中心に判断される。

本文中になく判断できないことはとにかく保留。

自分の感情を乗せて読む、なんてことは、ここでは一点たりとも求めていない。

いわゆる説明書や事務手続きの書類、そこで自己判断された日にゃ。

書いてあることを書いてある通りに読んで、書いてある通りに実行すればいいのに。

そんな文章の超基礎トレーニング。それがセンター国語。

 

もし作者の意図と正解選択肢がずれていたとしても、

それは作者の表現力が足りなかった、

もしくは読者の想像に任せた余白部分のため、本来問題にはできなかったものと言える。

 

つまり文学を読む、とは、「他人の気持ちを読むこと」が1つの目的と言える。

そこからの「他人になること」、そして「自分の『経験』を増やすこと」という感じ。

 

センター国語なんかはホント入口中の入口、文字面を追うこと。

それはそれとしてできないと話にならない。

その次に作者の性格や生い立ちなんかを知ることによってより深くその人の感情を推測。

結果自分がしたことのことのない体験を「自分が」体験する。

 

一応自分が読みたいように文学を読むのは1つの楽しみ方。

しかしそれとは別に作者へと同調して読む、つまり「他人の気持ちを読む」ことは別物。

文学の探求とは、色々な国の色々な人間、下手をすれば人間以外にもなれる。

実際動物の思考など「正しく」認識できる人類はいないだろう。

しかし客観視を交えれば、文中で「作者がどう考えているのか」を意識できる。

作者が擬人化した動物に対して抱いている感情であるとか、何故その動物にしたのかであるとか。

 

そうしてどんどんと他者の感情を掘り起こし、共感力を磨いていく。

と同時に文脈把握能力を磨けるため、因果関係をつかむ能力が上がる。(そこは理系知識も一緒)

それら自体が「マイナスを減らす」力である。

 

他人の痛みがわかるから、誰かに協力するし、できるだけ迷惑をかけないし、犯罪は避けようとする。

そういった能力を磨いた人が増えることは、だいぶ大きな投資たり得る。

まぁ…個人差は大きいけど。

けどそれも底上げこそ目的と考えれば、むしろ想定内。

 

芸術作品を作る、っていう目的だけなら芸大と同じ数でも確かに問題はない。

けど文学っていうのはある種の歴史の蓄積。

何人もの人間になれるのだから。

もし歴史学に価値があるならば、同様の価値が文学にもあると言える。

 

文学部っていうといろんな内容があるところが多いのも、

全部「他人の気持ちを読む」という観点から見ると一貫してる。

心理学なんて最たるものだけども。

アレは文系じゃない!っていう人多いけど、文系だから理科しちゃいけない理由なんかない。

むしろもっと複合的・学際的に「他人の気持ちを読む」ための探求をすべきー。

 

っと、とっ散らかった。

 

そろそろ結論。

文学部は「他人の気持ちを読む」勉強をする学部。

社会の維持や社会のマイナスを減らすために作用する学問であると言える。

そこに投資すること自体は、大きなリターンがあるが、いかんせん見えない。

なので安易に「やめる!全部廃止だ!」とかは意味がわからんよという感じ。

 

あとよくコスパ論を唱えてネットだけでできるよ!って人が多いけど、

そういう人は実際にそれのみで、しかも1人でやっちゃってください。

適性があって、実際できる人もわりといるので。

 

その上でそういうことができるタイプの人は実際大学行かずに高卒で働いていただきたい。

充分その能力があるだろうし。

んで働きながらでも学べるからファイト。

 

いわゆるF欄とかでも、いって学ぶだけで大きなプラスになっている…けど見えない。

そういうお話でした。

もう遅いし今日は寝る!(…4時ってむしろ早いなのかなぁ?)

いろんな言語があるけど、「数学語」って悪意がない分、タチが悪いと思う件

数学語についてです。

もちろん造語です。

 

とりあえず個人的な意見として、「小説家は全員ツンデレ」と認識しております。

伝えたいけど直接言うのは恥ずかしい…けど伝えなきゃ…。

で、ひねり出したのが、「ちょっと友達の話なんだけどさ、そいつ好きな子がいてね…」的な。

上手な人はそれを本当の虚構でも作るけど、それでも本人の意思は「漏れてくる」

 

詩人は甘えん坊。

伝えたくて伝えたくて耐えきれずに伝わらない言葉を繋げちゃう。

結局聞く側が頑張らなきゃいけなくなるっていう。

 

その上で数学者って突き抜けすぎて基本詩人と一緒、と思ってます。

最もわかりやすく話そうとするあまり、最もわかりにくく喋ってしまう。

例えばΣとか∮とかlogとかいう皆ダーイスキな記号とか。

あれで書くと「すっきりして」「見やすいから」「わかりやすい」と本気で信じてたりする。

結果、何も伝わってないことに気づいてない人も多い。

 

まぁここまでの話ぐらい「高度」でなくとも

「コレ、よく使うから覚えておいてもいいかもね」(実際には覚えないとほぼやっていかれない)とか

「コレは、まぁどの文字でもいいんだけど、tにするね」(tである意味がある)とか

してもしなくてもいいよ〜、っていう曖昧さの裏で、実はほぼ決定してる言葉たちも多い。

 

全体が見えてるから、結局曖昧さを残さなきゃいけないなーって思うんだけど、

その配慮のせいで伝わる時には裏が伝わっちゃう。

「よく使うから覚えておいてもいいかもね」ならば「じゃあしなくてもいいんだな」に。

「どの文字でもいいんだけど、tにするね」ならば「じゃあaの方が好きだからaにしよ。」とか。

 

誰しも「走り方」の説明はかろうじてできても、「立ち上がり方」や「歩き方」の説明は難しい。

あまりに基本すぎてあることにさえ気づけないような基礎。

数学者はそこをすっ飛ばしがちになる。(すごすぎる人は別ねー。)

 

で、結局論理的に正しすぎて、詩人化する。

言葉が伝わらない時、相手を責める人も多いけど、それはただの甘えん坊さん、ってことですねぇ。

伝え方って大事。

 

 

だめだー。

一回書こうと思ったものが途中で詰まっちゃったら放置する癖、直さねば。

こういうものは勢いと継続が大事な気がするのにぃ。

 

でもこういうことってわりと多い。

1つを完成させなければならない義務なんかないのに、なぜか自分でそれを義務扱いしちゃうこと。

転職とかマルチスポーツとか、最近の世の中はいろいろ自由度上がってるのになぁ。

こっちの道がダメならあっちの道!

基本なんだけどなぁ。

うまく行かんもんだ。

 

悔しいからちゃんと、ちょっとづつでもかけるように頑張ろっと。

自己否定っていうナルシズム


ナルシズム。
本来自分が大好きっていう概念だけど、大嫌いすぎるのもまたナルシスト。
自分に対する理想像があまりに高いため、何をやっても否定したくなる。

でもこれ、錯覚なんよね。
元々の100ぐらいあったプライドゲージが「すごく大きくなった」とかではなくて。
100のうち50入ってる時は今より2倍頑張ればいい。
100のうち10しか入ってない時は今より10倍も頑張らねばならない!
100のうち0.1しか入ってない時は頑張っても頑張ってもむしろもっと小さくなるような。
何やっても無駄、って感情が湧くのはこの辺り。

でもこれ、所詮は錯覚。
100は100なんよね。
だから小さな成功体験を積み重ねのが大事になる。
なぜならそれは、を「足す」行為だから。
さっきまで2倍とか10倍とか、掛け算でものを考えてしまっていたんだけど、小さな成功体験は足し算。
なんというか…自分の中だけでできる成功は足し算で、
他人と一緒にする成功が掛け算という感じだろうか。

プライドゲージの母数が小さい時は誰とも会いたくなくなる感じ。
だからこそ足し算で母数を増やす。
筋トレでもなんでもいいさ。
まずは小さく小さく何か成功させよー。
それが何につながるか、とかは明日考えよ?

坊主と袈裟は別物

嫌い、もしくは憎いという感情は難しいな。
批判がしたいときは相手を褒めてから、という姿勢は貫こうと思ってるのでまずは利点から。
しかし嫌いの利点か…わりとキツイな。

整理整頓、断捨離かな。
平和、ではなく、平穏を目指す感じ。
和合を求めるわけではなく、何も起こらないを求める、感じか。
とはいえ「特化する力」と考えればそれはそれで強くはある。
後は報復や自分の地位確保だろうか。
大きすぎるグループは動きが遅くなるので、小集団に別れることは一つの利点か。


問題は…まぁ多い。
①キライはその感情を持った時点からそのものの利点について考えなくなる。
苦手や未熟にキライっていう名前をつけちゃって、栄養素の不足やら運動不足やらにはなりがち。
②排除のための行動が周りに拡大する。
声の大きい方がやるとイジメやらハラスメントの類になりがち。
③自分の中でも拡大する。
やっと本題か。
坊主と袈裟は別物であるはずなんだけど、一部の坊主がキライなだけで全坊主をキライといってしまう。
坊主どころかその付属物、さらにその家族までキライになってしまう。

①は自分が損をするだけなんだけど、②・③に巻き込まれるとなかなか悲惨。
ただ普通に生きているだけでも親や兄弟、子どもが急に犯罪を犯すこともある。
子どもなら止められるだろう、ってよく言われるけど、わりと難しいだろうね。
追い詰められての犯行なら追い詰めるような人なわけで、何故追い詰めてたのかわかってないわけだし。
親兄弟ならなおさら。どう防げばいいのかなんてわかるわけがない。

個人的には再チャレンジ禁止社会はだいぶ不利益だと思ってるんですが、本人だけでなくその家族も会社を辞めざるを得ない状況とかはやはりおかしいかなぁと。
子どもと親は完全に別個体。
二世議員優遇を嫌う人が、犯罪者の子どもを嫌う理由ってなんなんだろうなぁと。

 

苦労した方がいいかどうか。

https://newspicks.com/news/2250829/
コレ読んだ。媒体幾つ通ってるんだって感じだけども。

苦労をした方がいいのか悪いのか、って話で、ハラスメントやいじめの話にまで広がっていく感じの。

個人的にはNPでコメントした通り。

>しなくてもいい苦労はしなくていい、っていう言葉は、化学の実験は1個もしなくていい感があって嫌。
>とんでもない苦労を理不尽に押し付けられるのはおかしい。
>けどそこを生き残った奴は超強い。蠱毒のように。(善悪関係なし)
>ただ問題は強度によっては、自尊感情が欠落することかも。

>よって、バランス重要っていう浅い言葉に託しとく。

こんな感じ。
ただこれだと質の良し悪しの話がわかりにくいなぁと思いまして。

苦労、って基本的にはトレーニングと同じものかなぁと。
だから過剰になれば怪我をしちゃう。
例えば骨折だと、普通目につくからそこで治療に入ることが多い。
ただ精神的負荷の場合、外から見えにくい。というか基本見えない。
つまり骨折状態(あるいはそれ以上)でもさらに負荷をかけてくることがある。
そもそも怪我をした時点でトレーニングっていう話じゃなくなる。
なのにその上に重ね続けると、完治不能の後遺症を受けることもある。

だからバランスって軽く言ったけど、外傷と違って先が見えないから本当に難しい。
だからこそ小さな頃に小さな苦労をしておくことはかなり重要だと思う。
子どもの、まだ力が小さなうちに小さな擦り傷切り傷つけたほうがいいと思う。
無菌状態で力が強くなって一気に大怪我、っていう状態は一番怖いんじゃないだろうか。

いうてどれだけ気をつけようと事故は起こっちゃうっていう覚悟は必要だけどね。
それが誰かのせいっていっても、そこは詮無いことで。

ただもし、常人が確実に大怪我するところを、怪我なく生き抜くような人は。
そんな人はものすっっごい強者にはなってそうだけどねぇ。
そりゃ本気で蠱毒クラスの強さになりそ…。